情報と意識について今思うこと

May 24, 2018, 12:35 p.m. edited Sept. 15, 2018, 4:49 p.m.

#意識 

2018-07-11 追記

今は違う.が,まだ書くことはできない(追記ここまで)


最近,ある友人が統合情報理論(IIT)を始めた.IIT については思うことがあったので,2 日前その友人と議論し,これを踏まえて今思うことを書き連ねようと思う.

IIT は現在 ver.3 となってやけに複雑化しているように思うが,結局のところ,統合されている情報から意識が発生するということであろう.そしてこれがどの程度高度に統合されているかで,その意識レベルの大きさが定量的に理解できる1

意識は情報からできているのだろうか?

結論から言うと,私は機能的な部分については可能だろうと思うが,いくつかの仮定を置いた上で,主観的な部分2については難しいと考えている.

まず,あなたの意識を \(\Psi\) とする.ここで, \(\Phi\) ではなく \(\Psi\) と表したのは統合情報量(\(\Phi\))が表すのはあくまでも意識レベルであり,別々の意識について同じ値となるのは許されると友人に指摘されたためである.そのため,個々の意識が固有にもち,これでそれぞれの意識を区別できるような情報量として \(\Psi\) とおいている.

そうすると,あなた(\(\alpha\))の意識が \(\Psi_{\alpha}\) ,あなたの友人(\(\beta\))の意識が \(\Psi_{\beta}\ \left(\Psi_{\alpha}\neq\Psi_{\beta}\right)\) と表されるならば,あなたの主観がその友人から発生しない3のに説明がつく.

ここで,脳のシナプスが次第に変化するように, \(\Psi\) は時間発展するであろう.つまり, \(\Psi(t)\) と表される.ゆえに, \(\Psi_{\alpha}(t)\) と \(\Psi_{\alpha}(t+\Delta t)\) では一般に \(\Psi_{\alpha}(t)\neq\Psi_{\alpha}(t+\Delta t)\) となる.これではあなたの主観はもう既にあなたの体から消え去り,別の主観が発生していることになる.

主観は連続しているという仮定を置くと,ここに矛盾が発生する.ゆえに,この矛盾を消すためにある閾値 \(K\) を導入して, \(\frac{d\Psi}{dt}<K\) であればその主観は連続しているということにしよう.

しかし,これでも問題がある. \(\lim_{\Delta t \to 0} \frac{\Psi_{\beta}(t+\Delta t)-\Psi_{\alpha}(t)}{\Delta t}<\frac{d\Psi_{\alpha}}{dt}\) となった場合はどうだろう.あなたの主観は友人に飛ぶのだろうか?

ここでは意識は情報であるとしているので,主観的な部分も同様に情報からできているのであれば,距離によっては光速度を超えて因果律に反することになる.

つまり,

  1. 主観が存在する
  2. 主観は他人のものとは異なる
  3. 主観は連続している

の 3 つの仮定を認めたとき,主観を情報量で表すのは難しいのではと思う.もちろん,これらの仮定を認めなければここまでの議論は成り立たないので,この結論は誤っているとみなせる.しかし,これらの仮定を認めるのがどうも自然に思えるのだがどうだろう.

ここまでの内容は素直に飲み込まないでいただきたい.そもそもこの世界は客観的な成分(機能的な意識も含めた)のみでできていると考えるほうが自然に思えるのにもかかわらず,主観が存在しないと否定するのも不自然に思うので,無理やり主観的な部分をどうにか導入できないか考えているためであろうか.観測者が存在することがもはや不自然.

もうよくわからないが,何か別の変数がある方が自然に記述できそうな感じが個人的にはしている.何かおかしいというところがありましたら4,教えてくださるとありがたいです.


  1. もちろん実際の生物の神経系の \(\Phi\) を厳密に計算するのはたとえそれが C. elegans であっても計算量の観点から現実的ではない.しかし,近似手法についてはいくつか論文が出始めている 

  2. 現象的意識と等価か 

  3. あなたはあなたの頭部を起点としてしか観測できず,友人の頭部から観測を始めることはできない 

  4. 大いにあるでしょう