クマムシと量子もつれのやつ

Aug. 24, 2024, 2:06 p.m. edited Aug. 25, 2024, 1:11 p.m.

#論文  #量子情報  #量子力学 

$$ \def\bra#1{\mathinner{\left\langle{#1}\right|}} \def\ket#1{\mathinner{\left|{#1}\right\rangle}} \def\braket#1#2{\mathinner{\left\langle{#1}\middle|#2\right\rangle}} $$

色々なところでクマムシが量子もつれになったという3年前の論文の記事が話題になっています。当該論文は Entanglement between superconducting qubits and a tardigrade です。これは何をしているかというのを少し書きます。

基本的なこと

実験に用いているのは超伝導トランズモン量子ビットで、基底状態と励起状態の2つのエネルギー準位になることができます。仕組みとしては「超伝導量子ビット研究の進展と応用」で解説されていますが、ここにもある程度書いておくと、下図のような電気回路を用意します:

ここで右側にある「×」をコイルにすると高校物理でも出てくるLC回路になりますが、ここではその代わりにジョセフソン接合を表す「×」が使われています。この共振回路のエネルギー準位の下から2つをそれぞれ基底状態、励起状態と呼び、2準位系の量子ビットとして扱います。したがって、このタイプの量子ビットは割と大きな系で構築されており(サイズは先ほどの解説文の図1でもわかります)、それが今回の論文で役に立ってきます。

次に、量子もつれを作る量子回路についてです。先ほど説明したような量子ビットを2つ用意し、その間で量子もつれ(特にベル状態)を作る回路は次のようになります:

これは、最初に基底状態にある量子ビットB \(\ket{0}_B\) にアダマールゲートを作用させることで基底状態と励起状態の重ね合わせ状態 \((\ket{0}_B+\ket{1}_B)/\sqrt{2}\) にします。それから量子ビットBを制御側、量子ビットAを対象側として CNOT ゲートを作用させます。これは制御側が基底状態なら何もしない、励起状態なら対象の状態を反転させるゲートです。先ほど量子ビットBは重ね合わせ状態になっていたので、

$$\ket{0}_A(\ket{0}_B+\ket{1}_B)/\sqrt{2}\to (\ket{0}_A\ket{0}_B+\ket{1}_A\ket{1}_B)/\sqrt{2}$$

という状態が得られます。 CNOT を作用させる前は全体の状態を量子ビットAの状態と量子ビットBの状態の掛け算(正確にはテンソル積)で綺麗に分けられましたが、作用させた後はもはや分けることができません。このような状態を量子もつれ状態といいます。その特性として、2つの量子ビットに強い相関が起きる性質があり、最後に量子ビットAを測定したときに \(\frac{1}{2}\) の確率で基底状態が、 \(\frac{1}{2}\) の確率で励起状態が得られますが、そのとき量子ビットBも測定された量子ビットAと同じ状態にしかなりません。その理由は上の式を見れば一目瞭然で、測定の結果 \(\ket{0}_A\ket{0}_B\) が出るか \(\ket{1}_A\ket{1}_B\)) が出るかというだけです。

論文の内容

さて、この論文でも同様に超伝導トランズモン量子ビットによる量子ビットをAとBの2つ用意しているのですが、そのうち量子ビットBのコンデンサにクマムシを入れています:

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すると、量子ビットBの周波数はクマムシの持つ誘電特性によってシフトしたものとなり、クマムシを含む電気回路全体が1つの量子ビットBとして振る舞うようになります。この状態で先ほどの量子もつれを作る量子回路を実行します。すると、まずアダマールゲートを作用させれば、全体として基底状態と励起状態の重ね合わせとなるので、クマムシも重ね合わせ状態に巻き込まれているとみなせるはずです。そのうえで、CNOTゲートにより、「クマムシを含む量子ビットB」と「量子ビットA」との間の量子もつれ状態が完成です。

その実験の結果、この回路を実行したところ最初に説明したクマムシなし回路とほぼ同等の結果 (82%) で一致したため、「クマムシを含む量子ビットB」全体が1つの量子ビットとして、量子ビットAとの間に量子もつれ状態を形成できたということになります。そして、その過酷な実験ののち、クマムシはちゃんと生きていたということが観察されています。

終わりに

冒頭で言及した記事にあるように、クマムシが量子もつれ状態になっている、と言っても良いと思います。とはいえ、シュレディンガーの猫のような「生」と「死」の重ね合わせほど劇的に異なる状態にはなっておらず、せいぜい異なるエネルギー状態にある2つのクマムシ状態が同時に存在するというくらいです。とはいえ、生きた生物というマクロなものを一部の材料に用いた量子ビットを実現できたというのはとても面白いんじゃないかと思います。